妖怪独話
甲高い怒号と共に、「お助けを~!」と逃げ惑う童たち。
夕日の向こう側に、散り散り逃げ去る後姿を眺め、
大笑いするお侍妖怪の姿。
正々とした白装束からは、身分の高さがうかがえるが、
まるっと肥えた意地悪そうな顔は幼く、
まさにガキ大将といったところか。
時は遡り数か月前。わがまま放題の明石藩のボンボン若藩主は、
天から罰が下ったのか、人々に恨まれながら二十歳の若さでぽっくり逝ってしまった。
死後、鬼として生まれ変わった若藩主、
嫌忌の目で見られる明石の地を去り、東海道漫遊へと旅立った。
甘やかされ緩み切った心と体に、歩き旅はしんどいものであった。
しかし生前にはない達成感と充実感がふつふつと
胸の奥から湧き上がり、旅の苦など吹き飛んでしまっていた。
そして、遥々たどり着いた武蔵国、保土ヶ谷宿。
宿場通りを闊歩していると、飯盛女たちの噂話が聞こえてきた。
「明石のお殿様が、参勤交代中に幼子を無礼討ちをしたってさ!」
「まあ恐ろしい!将軍様のバカ息子らしいわね。やると思ったわぁ。」
まてまて、それはわしのことか?と耳を疑った物の怪侍。
老中たちに無理難題を申しつけ、贅の限りを尽くしたが、
人切りは断じてしていないぞ!
その思いに反し、瞬く間に宿場町はその恐ろしい噂話で溢れかえり、
人が口を開けば、明石の人切り話ばかり。
「おさむらいさんって、もしかして人きりなの?」
荒唐無稽の噂話でイライラしているところに、宿の女童が袖を引っ張りながらあどけなく
話しかけてきた。
「無礼者!切り捨てるぞ!」
ついつい叫んだこの言葉。ひぎゃーと泣き叫び七転八倒しながら逃げる童。
おや?なんかこれ楽しいぞ!恐怖におびえる姿とは、なんと心躍るものなのだろうか!
その日を境に、保土ケ谷宿では人斬り妖怪「明石様」が出現することとなるのであった。
妖怪解説
神奈川県の保土ヶ谷に伝わる妖怪、明石様。
彼はこんな妖怪。
とある国の明石御前という殿様が、人切りしたくて仕方がなくなったそうな。
町では外に出ないようにと子供に言い聞かせていたのに、約束を破って外で遊んでしまった猟師の女の子。
ああ、無残にも通りかかった明石御前にバッサリ切られてしまいましたとさ。
それ以来、保土ヶ谷では「今日は明石様が通るから外に出てはいけない」と子供を叱ったということだ。参照:怪異・妖怪伝承データベース
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/2210007.shtml
文献は無いに等しいが、保土ヶ谷庶民には現代でも伝わっている明石様。
保土ヶ谷出身の作家仲間も小さいころ話を聞いていたそうで、地元限定で知名度がある模様。
明石様とは誰なのか?
「明石」というのは、現在の兵庫県にある地名だ。
江戸時代、兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区などは「明石藩」と呼ばれていた。
そこで私は、明石藩に人切りをした殿様がいたのではないか?
また、殿様が庶民を切る正当な理由を考え、参勤交代中に事件があったのではないか?
と推測した。
ええ、いましたそんな殿様が!
その殿様とは、播磨明石藩第8代藩主。
松平 斉宣(まつだいら なりこと)!
彼には無礼討ちの伝説がありまして、
斉宣が参勤交代で尾張藩領(当時の藩主は斉宣の異母兄にあたる斉荘)を通過中、3歳の幼児が行列を横切った。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行した。
村民たちは斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが許されずこの幼児は処刑された。
この処置に激怒した尾張藩は、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石藩主の尾張領内通行を認めないと通告するに至った。
このため以降明石藩は尾張領内においては行列を立てず、藩士たちは脇差し一本のみ帯び、農民や町人に変装して通行したという。引用:Wikipedia 松平斉宣
https://ja.wikipedia.org/wiki/松平斉宣
これは、肥前平戸藩主・松浦静山の随筆「甲子夜話(かっしゃわ)」に記されている。
さらに、切り捨てられた幼児は猟師の娘と書かれており、まさに明石様の言い伝えそのものである。
つまり、結論を言うと
妖怪、明石様の正体は、松平 斉宣(まつだいら なりこと)である!
松平 斉宣(まつだいら なりこと)という人物
松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、徳川将軍の中でもっとも絶倫、もとい子沢山だった11代将軍、徳川 家斉(とくがわ いえなり)の二十六男坊。
末っ子だったため、特に甘やかされて育ったのか、相当なわがまま小僧だったらしい。
当時、将軍徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、一橋家の力を確固たるものにするため、自分の子どもたちを他藩の養子として送り込み、藩主にしたてあげていた。
そんなわけで、明石様こと斉宣(なりこと)は、元服してすぐ15歳にして明石藩の領主となった。
元の藩主、松平斉韶(まつだいら なりつぐ)は、本来自分の息子を藩主にしたかったのに、無理やり養子を取らされて斉宣に明石藩を奪われ良いことなし!
藩主になるはずだった息子、松平 慶憲(まつだいら よしのり)の母は、悔しさのあまり自殺する始末。
そんな穏やかでない状況の中、15歳のボンボン息子藩主、斉宣(なりこと)は、それはもうやりたい放題。
将軍直系の藩主となるので、六万石だった明石藩は、八万石へとランクアップするのだが、
「いやじゃいやじゃ!将軍の息子の余が、八万石ぽっちじゃ格好付かないのじゃ~!」
と、駄々をこね、十万石にしろと老中たちに要求。
八万石の力しかないのに、背伸びして十万石となり、支出が増大、明石藩は財政難に陥った・・・。
そんなわがまま藩主斉宣(なりこと)は二十歳で重篤、皆に恨まれつつあさっりこの世を去ってしまった。
その後、斉韶(なりつぐ)の息子、慶憲(よしのり)が念願の藩主となり、元の越前松平家の系譜に戻ったのだった。
めでたし、めでたし。
参照:Wikipedia 松平斉宣
https://ja.wikipedia.org/wiki/松平斉宣
なぜ遠い保土ヶ谷に明石様は現れたのか?
ここが妖怪、明石様のミステリー。
幼児が殺された尾張藩で妖怪化するのはともかく、なぜ全く関係のない武蔵国の保土ヶ谷に出没したのか?
そこは、保土ヶ谷が、旧東海道の宿場町だったことがことがポイントだと思う。
実際に無礼討ちをしたかどうかという公文書は存在しないのだが、「甲子夜話」を含め、伝承がいくつか存在している。
・愛知県一宮市にある「孝子佐吾平遭難遺跡」の碑に書かれた、参勤交代中、暴れ馬を抑えようとし横切ったが宿の馬方を、斉宣(なりこと)切り捨てたというお話。
・静岡県三島市に伝わる、8代目藩主斉宣(なりこと)ではなく、2代目藩主松平 直明(まつだいら なおあきら)の無礼討ち。
実際、切ったかどうかはわからないが、何かしら明石藩と尾張藩とでトラブルがあり、斉宣(なりこと)の悪評と相まって噂話ができたのではないか?
そして
・愛知県一宮市は「萩原宿」
・静岡県三島市は「三島宿」
・神奈川県横浜市保土ケ谷区は「程ヶ谷宿」
と、噂の現場は、宿場町であることが共通してる。
明石藩にまつわる噂話が、ゴシップ好きの旅人の口から宿から宿へと語られ、遥々武蔵国までたどり着いた訳だ。
「参勤交代の日はうちの子が危ない!明石藩主に切り殺されるわ!」
参勤交代が通る東海道でのセンセーショナルな話題に、その通り道でもある「程ヶ谷宿」の住人たちの心中は、穏やかではなかったはずだ。
こうして、保土ヶ谷に妖怪「明石様」が誕生したと、私は推測する。
参照:Yubarimelonの気ままな歴史散歩 松平兵部大輔斉宜 尾張領内での無礼討ちは史実かフィクションか?
http://yubarimelon.blog.so-net.ne.jp/2010-09-28
余談:映画「十三人の刺客」と明石藩の不幸
映画「十三人の刺客」を観た方がいるであろうか?
私は、未見なのだが、明石藩藩主、松平 斉韶(まつだいら なりつぐ)に稲垣吾郎が扮し、残虐非道、悪逆の限りを尽くす映画である。
ここまで読んでいただいた賢明な読者は、お気づきになったであろう。
斉韶じゃなくて、「明石様」こと斉宣(なりこと)の間違いじゃない?
そうなのである。脚本家が勘違いをし、何も悪くない斉韶(なりつぐ)を悪役に仕立て上げてしまったのである。
後日、小説版では斉宣(なりこと)に変更したそうだが、2010年の映画版では修正されず、明石市民は困惑。
そしてなにより可哀そうなのは、苦労人の斉韶(なりつぐ)。
斉宣(なりこと)のせいで、妻は自殺するわ、後世に悪逆非道の濡れ衣を着せられるわで踏んだり蹴ったり。
さすが「明石様」、自分の罪まで人に擦り付けるとは、したたかな妖怪である。
十三人の刺客 [ 役所広司 ]
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アーティスト。 絵画、映像、イラスト制作やアートパフォーマンス、音楽活動しています。 最近は妖怪作家に転身。